特別企画
特別養護老人ホーム はなぶさ苑 15周年記念
はなぶさ苑が生まれるまで

 お陰様で今年五月「はなぶさ苑」も十五周年を迎える。早いもので、きっかけとなった母親の介護から約二十五年の月日が流れた。
 そして、この二十五年を振り返ってみると、前半の十年は母親の介護と、父親の介護という、家庭の介護に追われる毎日であったし、後半は「はなぶさ苑」の開苑による施設における介護に携わり、アッという間の二十五年であったように思えてならない。
 突然、母親が散歩中、連れていた犬に倒されてケガをし、入院するといったアクシデントが、私の家庭における家庭介護の発端であった。老人がケガ等で入院すると、もうお決まりのコースで、「寝たきり」…-「痴呆の始まり」という具合になり、退院後の生活支援は私の家内の仕事となった。又、この母親の突然の入院は父親の生活環境に大きな変化を与えたことになり、これまたお決まりのコースで「痴呆の始まり」…「徘徊」という具合になり、私の家内の介護量は飛躍的に増えていった。
当時私はサラリーマンをしており、日中は家にいないため、介護のほとんどを家内に任せ放しになっていた。両親が寝たきり、及び痴呆という事で介護を必要とするわけだが、二四時間いつでも介護を必要とする為、介護をする側は毎日大変な肉体的、精神的な苦労を強いられ、またこの苦痛がいつ終わるのかもわからないので、家内の精神状態は常に不安定であり、実際私達二人の子供に対する母親としての支援は、ほとんど出来ない状態であった。
 このようなアブノーマルな家庭生活が一年、二年と続くと家庭はどうなるか?
これは家庭で介護の経験のない方には、絶対に理解して頂けない世界である。
 家庭内の人間同士がトゲトゲし、対立や対峙の毎日を送ることの辛さは言葉では言い表せない。家庭という城の崩壊へとつながっていった。毎日毎日、家内の愚痴を聞いて慰めてやるのが私の仕事であり、事実これしか私には出来なかった。「わかった、わかった」と言って、肩を抱いてやるしか私には家内に言える言葉がなかった。
「お父さん、私はいつまで介護すればいいの?私にも自由な時間が欲しい」と言われれば、私にとって両親も大事だし、妻も大事だから、どちらかに軍配を上げることはできない。だからこそ、「わかった、わかった」の言葉しか言えなかった。
 だが、どうにか嫁に行った姉さん達の協力を得て、最後まで両親の介護をすることができ、本当によかったと思っている。
 さて、このように両親の介護から開放されてみると辛いと思っていた介護というものが、何となく身近に思えてならなくなっていたのか、今度は老人ホームを作って、この介護で困っている方々のお手伝いをしたいという気持ちが不思議とわいてきたのである。


 この私の心の変化に対し家内はもちろん大反対だった。しかし、私の気持ちの固いことを認めてくれて、徐々に家内も賛成に傾いていった。
 家庭内での意思統一が出来たので、今度は県庁へ出向き、私に老人ホームを作らせて欲しいとお願いに伺った。確か、昭和六十年の春頃だったかと思う。初めのうちはあまり真剣に取り上げて下さらなかった担当者も、たびたび訪問する私に、四回目頃よりいろいろと話し合いのテーブルに付けてもらえるようになった。当時の言葉の中で、今でもよく覚えているのは、「今、老人ホームをやりたいと言って来ている人は、六〇人くらいいるよ。県南地域ならすぐ取り上げてやるけど、県北はかなり老人ホームもあるからな〜」という冷たい?言葉だった。また、「一年に三ヵ所くらいの建設予定だから、あなたの番になるのは、約二十年後だネ〜」と言って笑っておられた。
 しかし、私はこの言葉にくじけることなく、二〜三ヶ月に一回の割合で県庁の担当者のもとへ足を運んだ。どうしても老人ホーム
を作らせて欲しいという熱意だけは、担当者に伝えたかったからだ。
 そして昭和六十二年七月三〇日、県の担当者から電話があり、「もし本当に老人ホームを作る気があるならば推薦するから」という内容のものであった。私が県庁に伺うようになって丸二年と少しという、とても予想もつかない期間で私の計画を取り上げてくれたのだ。やはり私の誠意を認めて下さったのだと信じているが、ここにくる
までに多くの人達に応援して頂いた事への感謝の気持ちは今でも決して忘れていない。
 ところが、いざ指名されても、補助金申請はどのように行うのか、社会福祉・医療事業団からは借入はどうするのか?とやらなければならない事が山ほどあった。まず、社会福祉法人はどのように作るのか?と悩んで、司法書士、社会保険労務士、弁護士等の先生方にあたっても、その当時社会福祉法人の設立を業としている先生はいなかった。
 このように、自分でやらなければダメだということがわかったので、他人に頼る事はやめて、何もかも自分でやろうと決心した。夜、会社から帰ってきて、原稿に下書きしておいたものを、昼間家内が清書するという、このパターンで何日も何日も続けて進んでいった。特に行政における特殊用語の理解には本当に困った。がしかしやらなければならないという使命感に燃えて、夜遅くまで下書きや参考文献を読みあさった。県庁にもよく出向き、不明な点や難解な言葉の意味を聞いたりと、恥ずかしさを忘れて申請業務をこなしていった。
 どんなにキツイ仕事の連続であっても、「老人ホームを作るんだ」という前向きの気持ちがあったので、もうこの仕事をやめようと思った事は一度も無かった。
ただただ、老人ホームを作って家庭で介護に行き詰まっている人を応援できたらという本当に純粋な気持ちのみが、私の仕事のエネルギーだったように思える。
 そして翌年の昭和六十三年七月四日、晴れて法人の許可書を知事より頂いた。


 社会福祉法人熊谷福祉会が誕生したのが昭和六十三年七月六日付けの登記によってであります。
 この登記の完了により、法人格を取得したことで法人という交渉者としての立場を認めていただけたわけでありますが、ここで法人設立までの過程について少しふれたいと思います。
 社会福祉法人の設立には、設立発起人の他に賛同者が必要であります。もちろん設立発起人には私が就任したわけでありますが、他の五人をどうするかという問題が残ってしまいました。私には既に両親はなく、理事長になる人が決まっていたわけではありません。いろいろ考えた末、私の父のいとこに当たる持田熊一氏に理事長への就任をおねがいすることと致しました。私のお願いにも快くお引き受けいただき、その後力強い支援をいただいたことに深く感謝いたしております。又、その他四名の理事の方をどのようにお願いしたらよいか?と思い悩んでおりましたが、やはり地元優先ということで、玉井地区の民生委員をしておられた鯨井佐代子先生、久保島地区の民生委員をしておられた依田マサ子先生、そして玉井自治会長をしておられた小林正司先生の三名にお願いすることといたしました。残る一名については、私がまだ会社勤めをしている時から懇意にさせていただいておりました税理士の中村久三郎先生にお願いする事になりました。
 どの先生方も快くお引き受けいただきましたが、後日談として当時の事が語り草となっており、それは、まだ海のものとも山のものともわからない事業の理事になること、まして実印を押し印鑑証明を添付するという厳しい現状をかんがみたとき、はたして理事への就任を安易にOKして大丈夫だろうか?と理事同士で話し合ったという実話を聞かされたことがありました。理事に就任したとしてもそれに対する報酬は一切ありません。何かあった時の責任ばかり追及されるという誠に不思議な立場に立つわけでありまして、就任をしていただいた先生方には本当に感謝をいたしておるところであります。
 法人の設立が完了しましたので、次に建設会社との契約に進み昭和六十三年八月下旬に特別養護老人ホームはなぶさ苑の建築契約を株式会社江田組さんとさせていただきました。約一八00uの施設を半年間でつくりあげるということは、まことに厳しい工事期間でありました。着工してまず一ヶ月間は杭打ちで終わってしまいました。この建築予定地は昭和五十四年から五十五年にかけて石を採ったためコンクリートパイルを一八五本も打ち込む必要があったのです。ドカンドカン毎日騒音がしていては隣近所に対しても心苦しく、また振動もありましたので、本当に早く終わってくれればいいなという気持ちの毎日でした。


 法人の設立登記も終わり、特別養護老人ホームの建設が始まりましたが、次に待っていたのは、補助金の申請でありました。
 特別養護老人ホームの原資は、日本自転車振興会、埼玉県および熊谷市の三団体の補助金と社会福祉医療事業団からの借り入れ、並びに設立者本人(私)の寄付金より建設資金が構成されております。
 従いまして、これらの補助金先へのお願いやら交渉やら、申請書類の作成やらで、大変忙しい毎日が続きました。以前は民間会社におりましたので、公務員的な文章の内容について、理解できないものもあり、書類作成が進まないままとなってしまうこともありました。
 補助金のなかで、その額が一番大きかった日本自転車振興会につきましては、作成する資料も多く、また「初度調弁」などという聞き慣れない言葉が出てきて、何を意味するのだろうと考え込む事もあり、また他の人に聞くわけにもいかず、大変困ったことを今でもよく覚えております。また、熊谷市につきましては、私どものお願いとして、「デイサービス」を特養開設と同時に開設したいと申し入れをしておりました。しかしながら、昭和六三年当時にはデイサービスセンターが県内で五ヶ所程度開設されているくらいで、まだまだ一般には知られていない時代でありましたので、このお願いの実現にはかなり時間がかかってしまいました。その結果とりあえず、「ミニデイサービス」として開設しようということになり、熊谷市内で初めてのデイサービスという在宅サービスが誕生することができたのです。ところが、熊谷市側もあまり良くデイサービスのことを理解しておらなかったようで、建設資金の補助金は出ることになったのですが、運営費については考えておらなかったということが、特養開設の平成元年五月になって判明したのです。ではどうするのか?結局平成元年六月の議会で予算を組んでもらうことになり、ようやく平成元年七月より、この「定員八名のミニデイサービス」がオープンする運びとなったのです。
 私が両親の介護の体験を通して、老人ホームを作ろうという行動は、昭和六〇年の県庁へのお願いから丸四年を経て関係各位のご協力を頂き、完結したのであります。
平成元年四月二六日(水)にご協力いただいた関係者にお集まり頂き、盛大に披露をさせていただき、翌月の五月八日(月)より、特別養護老人ホームはなぶさ苑の入所が始まりました。私の夢が実現した瞬間であり、四年の努力が実を結んだ瞬間であります。私の名前『英昭』の英をはなぶさと読むことから、家内が命名してくれた『はなぶさ苑』が私ども夫婦の力の結集として誕生したのです。(完) 

 このページは、特別養護老人ホームはなぶさ苑開設15周年を記念して、持田総合施設長が施設の広報誌「いきいきネットワークはなぶさ(苑)」に連載した‘はなぶさ苑が生まれるまで’を載せています。  
*広報誌:平成15年1月号、4月号、10月号、平成16年1月号に連載。

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